スライディング・ヘディングシュート2


3000坪の冒険と、時々音楽すごく映画。たまにサッカー
by frat358
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カテゴリ:戦争と人( 6 )

サカイ・タイゾー

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兵士は、勝てる戦いで死ぬ事を最も嫌がります。
生き残りさえすれば給金を抱えて、
勝者として故郷に戻れるので
勝ったのに死んでしまう事を何より恐れました。
戦国時代に、関ヶ原の戦いで東軍が勝利した後、
西軍側は撤退したものの、石田光成の佐和山城は
2800人程度の兵士と共に無傷で残っていました。
徳川の東軍に降伏する事を
潔しとしない佐和山城の兵士達は
関ヶ原で決着が付いた後も城内で抵抗を続けました。
勝った東軍の兵士たちは、関ヶ原で勝利したのに
佐和山城で戦死する事を嫌がりましたし、
信頼できる兵士達を死なせたくなかった徳川は、
関ヶ原で石田光成を裏切った武将達に、
佐和山城の攻略を命じました。
城攻めの先鋒を務めたのは、関ヶ原での裏切りで
戦況を一気に変えた小早川秀秋。
徳川家康が、小早川の功績を称えながらも
勝った後の戦いで先鋒を命じていることから、
実際は小早川を全く信用していないのが分かりますし
裏切って東軍勝利に貢献した小早川、脇坂、朽木などは
徳川に信頼してもらう為に佐和山城の兵士達と
激しく戦わねばならなかった。大きな犠牲が出たそうです。


太平洋戦争の末期。
日本の敗北が迫っていました。
日本側は降伏する事を潔しとせず、
硫黄島や沖縄で激戦を続けます。
私達の国では、最後まで日本を守るために
命をかけて戦った兵士達を、全面的に肯定せずとも
その全てを否定的に考える人は少ないです。
しかし米軍のほうは勝利を確信していたので
玉砕戦を選んで自分達の命を脅かす日本人達を
心の底から嫌悪する兵士が大半だった。
彼らにとって神風特攻は無駄な死であり、
万歳突撃は狂気の発想としか思えなかった。
米軍の兵士達は、夜になると恐ろしい想像をした。
降伏しない日本人達を皆殺しにしない限り
この戦いは終わらないのだろうか、と。
早く終われ。早く終わらせろという思いが
米軍を包んでいた時に、原爆が落ちた。
やっと終わった。それゆえに欧米では
原爆を肯定する人が多いのかもしれません。
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日本では終戦の日が近ずくと、
美しい物語をメディアが探します。
硫黄島の戦いで日本兵から受け取った写真を
何とか本人に返却できないか、
悩んでいる元アメリカ兵が居ると聞き、
メディアは美しい物語の匂いを感じとって
写真に写っている3人を探しました。
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硫黄島の戦いは、アメリカ軍も日本軍も
多大な被害を受けた激戦でした。
地下壕を作って空爆を耐え抜き、
上陸してきたアメリカ兵を引きつけて
一気に殲滅していった日本軍の戦法は
若いアメリカ兵達を次々と殺した。
米軍の戦死者は6821名。
負傷者も21865名という大変な損害でした。
その凄まじい損害を覆い隠すかのように、
星条旗を硫黄島に掲げる米兵の写真は
物語としてアメリカ国民に愛されました。
日本軍も、ほとんど生存者が居ないほどに
徹底的に殲滅されました。
降伏は許されない教育を受けており、
米軍に下れば非国民。家族も被害を受ける。
そんな、誰もが死ぬしかないと考える状況の中で、
まるで実際のアメリカ兵の軍規や、
現状の世界情勢を知っていたかのような
フランス語を話せる男が、硫黄島の地下壕から
夜になると1人で現れ、アメリカ軍に降伏します。
男の名は、サカイ・タイゾー。

サカイは映画「硫黄島からの手紙」で
渡辺謙が演じた事で有名な栗林中将の部下でした。
サカイは伝令を暗号化する通信兵であり、
外国語が堪能だったサカイは、
様々なメディアから情報を知る事ができた。
それゆえにサカイは、日本が絶対に
アメリカに勝てない事を開戦前から悟っていた。
当時としては極めて稀な日本人でした。
サカイは降伏後に尋問を受けるとよく喋り、
日本軍の作戦や軍備、暗号の解読法、
司令部の位置、更には沖縄戦の内容まで
米軍に話してしまいます。
国際的な一般論だと戦場で降伏するのは
それほど珍しい行為ではありませんが、
情報を次々と与えてしまうというのは
スパイ行為に近いです。
サカイは重要な捕虜だけが送られる
アメリカのフォートハント収容所へ移送が決まり、
尋問中に仲良くなったアメリカ兵に
写真を渡したのでした。

「いずれ没収されると思うので、
大事な写真だから預かって欲しい」
写真の裏にはフランス語が書かれていました。
硫黄島で戦った日本兵達に、
どれだけ聞き込みをしてもサカイという兵士は
聞いた事が無いという返事でした。
戦闘に参加した兵士の記録を見ても、
サカイという名は無かった。
終戦を迎え、サカイは日本に戻っています。
6人の子供を育て、喫茶店を経営。
1987年に他界。親族には一切、
降伏した話をせずに逝ったそうです。
サカイ・タイゾー。本名はサカモト・タイゾー。
降伏する際に、家族が迫害される事を恐れたサカモトは、
偽名を使って降伏していた。それゆえに
硫黄島で戦った兵士達の記録に、名前が無かった。
写真の裏にフランス語で書かれていたのは
ボードレール著「悪の華」の一節、
「我が苦悩」でした。

美しい話を求めて、サカイ・タイゾーという
謎の兵士を追ったメディア。
1枚の写真から始まった物語の終点は、
日本を裏切る事で1日も早い終戦を願った
1人の兵士の物語でした。
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by frat358 | 2015-05-17 20:02 | 戦争と人

スナイパーを探せ

WIREDのサイトで、「ウォーリーを探せ」ではなく
「スナイパーを探せ」という企画がされています。
10枚の写真が在り、スライドショーを右へ展開させると
何処に居るのか正解が表示されます。

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よーく探してみましょう。銃は見えてます。



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正解は・・・ここ。目の前に居た。
それでも「ここ」って言われても分からないですよね。
出てきてもらいましょう。

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迷彩を着てるので、顔をだしてもらわないと
目の前に居たのに分からないですね。

これは「遊び」ですけど。
この状況が戦場で発生した場合、
見つけられなかったら私達が殺されます。
ナセル・オリッチが何故、待ち伏せ攻撃で連戦連勝だったのか。
なぜ戦争は地元民のほうが強いのか。
なぜ最新装備の米軍が中東で劣勢になるのか。
とっても納得できる恐ろしい遊びでした。

元記事
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by frat358 | 2015-02-05 23:53 | 戦争と人

オスカー・シンドラー

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スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」で
広く、その存在を知られる事になったシンドラー。
戦後に西ドイツが補償金制度を開設した時、
シンドラーはユダヤ人を救う為に使った金額を
10億円以上と申告しています。
シンドラーはナチス党に所属していた人で、
女グセが悪く、方々に愛人を作って
戦争を利用した金儲けをしていました。
何がきっかけでユダヤ人の保護を始めたのかは
ハッキリしていませんが、
ある日ユダヤ人の少女2人が絞首刑になるのを
目撃して、気分が悪くなり嘔吐したという話が
残っています。彼は収容所に居たユダヤ人達を
自分の工場に連れて行き、
人間らしい生活を提供しました。
映画でも、この辺りは丁寧に描かれていますが
戦後のシンドラーとユダヤ人達については
映画で扱われていません。
シンドラーと救われたユダヤ人達は
戦後を、どう生きたのでしょうか。

シンドラーが救ったユダヤ人達は
ポーランド出身の人が多かったようです。
彼らは戦後、故郷のポーランドに帰ります。
自宅に戻ると、そこには知らない人が住んでいたり
家自体が無かったり、財産も没収されてました。
収容所に送られたユダヤ人達は死んだ事になっていて、
まさか戻ってくると思わなかったポーランド人達は
一斉に暴動を始め、戻ってきたユダヤ人達を
次々と襲いました。簡単に言えば
貰ったと思っていた財産を「返せ」と言われ、
いやだ返したくないという思考が
戦後の生きるか死ぬかという状況で
発生してしまったのだと思います。
これによって何人ものユダヤ人が
リンチ殺害されました。彼らは故郷に戻っても
居場所がなく、イスラエルやアメリカに
身体一つで旅立っていきました。
そこで出会う人々は、彼らが受けた仕打ちを
信じない人が多かったそうです。話を聞いても
なぜ反乱を起こさなかった?とか
誰もが戦争中は苦労したんだと返されて
人種虐殺という行為を深刻に見つめられなかった。
ゆえに、シンドラーに救われた人たちは
解放後も共に連絡を取り合い、
支えあいながら戦後を生きたのでした。
未だに床に落ちたパンを拾いたくなると、
シンドラーに救われた元収容者の老人は
涙を見せていましたが、
イスラエル出身の奥さんは
「もう忘れなさいよ」と呆れたように
笑顔を見せます。老人は「そうだね」と、
心の傷を共有できない悲しさを受け入れながら
夫婦として暮らしていました。

一方、シンドラーは
ナチス党に所属していたので
戦後も犯罪者としての疑いをかけられます。
チェコに残した父親と愛人は厳しい目を向けられ、
父親は警察の尋問で撲殺されます。
ユダヤ人虐殺に強く関わった
ナチス党のアイヒマンが逮捕されると、
その繋がりでユダヤ人を救う代わりに
金銭を受け取っていた人物も浮上し、
このままではシンドラーも犯罪者として
捕まってしまう可能性があった為、
救われたユダヤ人達はシンドラーの行為が
正義であった事を強く主張し始めます。
これによってシンドラーは一般的にも
広く知られるようになり、イスラエルでは
「正義の人」と称えられるようになります。
しかし、有名になってしまったシンドラーは
西ドイツで工場を再開していたんですけど
この時期に従業員から鉄パイプで襲われてます。
そしてこう言われた。
「ユダヤ野郎。お前を収容所で殺し忘れた」と。
被害届けを出しても警察は受理してくれない。
戦時中の行為が広く知れ渡ったシンドラーは、
西ドイツで生き残った元・ナチス党の人々に
嫌悪されるようになっていました。
南米では毛皮業の工場を作るのですが、
こちらも完全に失敗。更にはアルコール量が増え、
手も震えだすほど酒に溺れ、
何処へ行っても何をやっても上手くいかず、
ある日、泥酔して「1200人のユダヤ人を
救わなければ、こんな目に遭わずに済んだ」と
友人に話していたそうです。
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生き残ったユダヤ人達も、シンドラーも、
戦後の荒んだ心に翻弄され続けました。
そして戦後も苦しい思いをした点で、
お互いの心が繋がっていたのかもしれません。
シンドラーは1年のうち、2~3ヶ月は
イスラエルで暮らすようになり、
そこで女性と知り合って共に暮らしました。
ドイツに落ち着ける場所は無く、
イスラエルで暮らしている時だけが、
いや正確には、かつて救った人々と
交流している時だけが、シンドラーにとって
心が落ち着ける時間だったのかもしれません。
シンドラーが救った1200人のユダヤ人は
息子、娘、孫と増えていき、現在では
2万人になったと言われています。
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by frat358 | 2010-12-08 23:37 | 戦争と人

ナセル・オリッチ

第二次世界大戦以降、社会主義国家として
1980年近くまで体制を維持したユーゴ連邦。
しかしティトー大統領が亡くなると
民主主義を求める流れが大きくなっていき、
スロベニアとクロアチアが連邦から独立。
44%のムスリム人、31%のセルビア人、
17%のクロアチア人を含む他民族地帯だった
ボスニア・ヘルツェゴビナでも
ムスリム人とクロアチア人がユーゴ連邦からの
独立を希望して、選挙で勝ちました。
これによってボスニアヘルツェゴビナ共和国が
建国され、EUがこれを1992年に承認します。
しかし31%を占めるセルビア人達は
ユーゴ連邦からの独立に反対していました。
セルビア勢力は武器を集め、高地を占拠し、
ボスニアヘルツェゴビナの
首都サラエヴォを攻撃しました。
侵攻したユーゴスラビア人民軍の目的は、
建国されたボスニアヘルツェゴビナの中に
セルビア人で構成された
スルプスカ共和国を建国する事でした。
国の中に国を作るという行為は
迅速に行われていき、
空港や道路も掌握すると、92年5月には
完全にサラエヴォ包囲が完成します。
サラエヴォは食料も医療品も届かなくなり、
水も、電気も、暖房システムも停止。
セルビア側は蛮行を拒む人を殺害して
見せしめにする事を皮切りに、
ムスリム人が住む地域への焼き討ち、
リンチ、組織的な集団レイプ行為、
強制収容所に送還して殺害なども
おこなっています。レイプの犠牲者は
国連の調査で1万人から5万人と
推定されますが、ムスリム系の民族は
結婚前に処女を喪失する事が大問題なので
被害を受けても黙っている女性が多く、
統計を取りにくい現実もあるようです。
そして殺人行為は男性だけでなく
女、子供に対しても徹底されました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ、
そして、その首都であるサラエボは、
多民族によって構成された
理想的な都市で有名でした。
しかしサラエヴォ包囲によって
ありとあらゆる生活手段を奪われ、
そこに住む人達の共同意識は薄れていき、
民族という垣根を生んで
バラバラになっていった。
この紛争が別格で語られることが多いのは
犠牲者の数は勿論なのですが、
民族同士の敵対を大きくする作戦が
数多く行われた事も要因といえます。
しかしそんな状況の中で、セルビア側の
攻撃からボスニアヘルツェゴビナを
守ろうと戦った人達も居ました。
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ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍
第2軍団第28山岳師団(1995年の呼称)
司令官の名は、ナセル・オリッチ。
セルビア軍の攻撃は、
スレブレニツァという地域で
特に激しさを増していました。
この時期からセルビア軍はムスリム人への
殺害行為を意識的に強めています。

いっぽう、オリッチも所属した守る側の防衛隊は
ほとんど武器らしい武器を持っていませんでした。
蛮行を繰り返しながら攻め寄せるセルビア軍は
旧ユーゴ連邦軍の武器をそのまま譲り受けており
圧倒的に、守ろうとする防衛隊が不利でした。
スレブレニツァ防衛隊は
軍というよりもレジスタンスであり、
地域的に結束して戦っていました。
オリッチは、その小さな反抗部隊の
指揮官の一人でしかなかった。
この時点ではオリッチに味方する人は少なくて、
地元警察の武器庫からライフルを
集められる程度でしたが、
92年4月20日頃から防衛ではなく、
反撃を開始します。
セルビア警察の車両や準軍事組織隊への
待ち伏せ攻撃を成功させると、
セルビア軍の大砲による報復攻撃を耐えつつ
5月にオリッチは虐殺行為をされていた
ムスリム人を率いてセルビア側を更に攻撃。
このとき、セルビア側の指導者であった
ゴラン・ゼキッチがオリッチ隊の攻撃で死亡。
オリッチはスレブレニツァの支配権を確保します。
しかしこれによって、スレブレニツァに
住んでいた人達の中で、セルビア系の人達は
恐怖に怯えます。襲っていた側の民族が
今度は襲われる側になっていく。
セルビア人だというだけで報復される。
よってセルビア系住民は
スレブレニツァから脱出していきます。
セルビア系住民が逃げていった事で、
今まで逃げていたムスリム系住民が
スレブレニツァに帰ってきます。
その後3年間に渡ってムスリム系住民は
街を統治しました。
ボスニアヘルツェゴビナのセルビア人達は
オリッチ率いる防衛隊の反撃を聞くと、
グロコヴァやブラトゥナツといった街に住む
ムスリム人を殺す事で報復しました。

虐殺されていた側が反撃し、街を奪還する。
聞いてて痛快な話なのですが、
ボスニアヘルツェゴビナの中の
ムスリム人だけを狙って虐殺が行われた時点で
民族を隔てた攻撃と反撃の図式は
スタートしてしまったと言えるかもしれません。
オリッチはボスニアのムスリム勢力にとっては
英雄と言えそうですが、セルビア勢力にとっては
悪夢のような存在と言えそうです。
ボスニアヘルツェゴビナは完全に包囲されており、
その状況を変える事も狙ったのか、
オリッチ軍は更に反撃を続けていきます。
92年5月に始まり、93年の1月に
攻撃が失敗するまで連戦連勝を続け、
その際にセルビア系住民の追い出しや
焼き討ちなどもオリッチ軍は行っています。
そして93年の2月。
ボスニアヘルツェゴビナの中の
セルビア人勢力が、ムスリム人に統治された
スレブレニツァへ全面攻撃を開始。
これをオリッチ軍が迎え撃ち、
戦いが激化するなか、93年の4月に
国連によってスレブレニツァは
安全地帯に指定されます。
95年5月にオリッチは
スレブレニツァを去りましたが、
95年7月頃にはセルビア人勢力が
国連安全地帯だったスレブレニツァに
再び攻撃を開始しました。
国連が安全地帯に指定した事で
スレブレニツァのムスリム人達は
安心して武装を解除していたので
たいした反撃もできずに殺されていく。
怒った国連は空爆を始めますが
視界不良で爆撃が不可能だったり
2~3万の市民が避難している国連施設を
砲撃するぞと脅された為、空爆を断念。
スレブレニツァは完全制圧されました。
そしてムスリム人達は再び虐殺されていき、
推計8000人のムスリム人が殺害され、
のちに「スレブレニツァの虐殺」と呼ばれます。
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終戦後の2006年、オリッチは
92年から93年におこなった
スレブレニツァ周辺地域への攻撃に関して
戦争犯罪にあたるとして捕らえられ、
指導者責任の罪で2年の懲役刑を受けました。
しかしそれ以外の起訴罪状、破壊行為などは
軍事的必要性によるものとされ、冤罪されます。
オリッチは周辺地域への攻撃を確かに行いましたが、
それに対してセルビア側も大砲や戦闘機で
応戦していました。よって一方的な虐殺や
追放行為などをオリッチ軍が実行したとは言えず、
2008年7月には容疑を全て晴らしました。
判決後、既に2年拘留されていたオリッチは
そのまま解放されてサラエヴォ国際空港へ。
何千人もの市民に歓迎されました。

オリッチは市民というよりは軍人だったこと。
そして、彼が遭遇したサラエヴォ包囲というのは
いわゆる兵糧攻めです。この戦略をされた側は、
歴史的にも打って出るか降伏するかの2択が
ほとんどであり、家族を失って士気の高い
ムスリム人達を率いるにあたって、
オリッチが「反撃」という選択をしたのは、
軍人としてはスマートな考えに思えます。
そして彼は歴戦の軍人ではなく、
当時は20代なかばという年齢でした。
率いていたのも軍隊ではなく、志願を含めた
少数のレジスタンス部隊だったこと。
それらを考えれば、彼が部隊を完璧に統率しながら
軍事作戦を行っていたとは思えません。
しかも率いている部隊は「恨み」を要因にして
武器を持っています。この部隊を20代の若者が
完全コントロールするのは不可能だったと思います。
なので、反撃時に焼き討ちなどを起こしているのが
オリッチの判断であれ、そうでないであれ、
当時の状況も理解してやる必要があると思います。
オリッチの判断や行為を英雄的に考えはしませんが、
一人の軍人が当時に出来た最大限をしたのではないかと。
そしてオリッチが命を懸けて選んだ戦いの果てには
勝利も無く、正義もなかったように感じます。

いっぽう、国連安全地帯への侵攻、
市民や兵士を盾にした脅迫、
ムスリム人への虐殺行為、
それらを指令し、責任者だったのは
ラドヴァン・カラジッチという人物です。
彼もオリッチと同じように
戦争犯罪者ですが、カラジッチは
1996年から逃げまわり、
2008年にようやく捕まりました。
彼への求刑は2年では済みそうにありません。

*
ムスリム人は現在、
ボシュニャク人と呼び名を変えていますが
読み手の混乱を避ける為に
呼称をムスリム人で統一しました。

ユーゴスラビア人民軍、当時のセルビア軍の
成り立ち、歴史は説明が長くなる為に省いています。
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by frat358 | 2010-09-17 21:06 | 戦争と人

テレビ

八月は原爆投下や終戦記念などもあって、
衛星放送も民放も、力をいれて
第二次世界大戦の番組を作っていますが。
うじきつよしさんの
「僕の父はB級戦犯」という番組は
ぜひ、見たかったです・・・
友達に放送時間まで教えてもらってたのに
見るのを忘れていました;
1人暮らしやってると、時間が空いても
「あ、食器を洗ってしまおう」とか
「丁度いい、風呂に入ろう」とか思うので
こういった「番組の見過ごし」というのが
多発しやすいですね。困ったもんだ。

僕の親戚や、田舎の近所に住んでた人達は
色んな分野で優秀な人が多かったです。
だから、兵器の開発にも関わってると思います。
それがどんな結果を生むのか。
想像できる力はあったけど、逆らえば非国民。
兄弟も両親も生きていけなくなる。
葛藤の中で戦っていた事が、
生き方を追うと見えてきたりします。
世の中が平和だったら
幸福の為に能力を活かせたハズ。
悔しかっただろうな・・・
俺だって軍歌なんか作りたくないよ。
そんな事を思う事もあるので
ぜひ見たかった番組なのだが。残念だ。


昨日だか2日前だかに、衛星放送で
イギリス制作の「アンネの日記」と
「Dデイ(ノルマンディー上陸作戦)」を見ました。
外に出れない生活の中で、
精神的に追いつめられていく大人達を
13歳の若さで見る事になったアンネは
14歳になる頃には自分の考えと
自分の夢を持っていて、凄い速さで
精神的な自立をしてしまうのですが。
今の年齢になってアンネの日記を追ってみると、
まるで自分が捕まるのを予感していたかのように
自分が隠れている家の事も、戦争の事さえも超えて、
世界全体を見つめながら
自分の思いを書き綴ってるように感じました。
特に日記のラスト辺りは、そんな気持ちになります。
アンネや一緒に隠れていた人達の亡くなった日時を見ると
あともう少しで終戦だった事に気ずきました。
特にアンネと姉は、もうちょいだったのに。悔しいね。


「Dデイ」のほうは、いわゆる
ノルマンディー上陸作戦であり、
ドイツ軍と連合軍が死闘を繰り広げた海岸戦に
焦点を当てた番組になっていました。
なかでもオマハビーチと呼ばれたエリアは
超が付くほどの激戦地となり、その場所で
カメラのシャッターを押していたロバート・キャパは
恐ろしくなって最後は逃げ出してしまった事も
有名な話です。彼が撮ったオマハビーチの写真は
画像がブレているモノもあるんですけど、
それはキャパの手が恐怖で震えていたからであり、
その事が逆に、オマハビーチの地獄絵を
広く伝える事になりました。

「プライベートライアン」という映画でも
作品の序盤が、このオマハビーチの死闘なんですけど、
この番組を見たいと思った理由は、
連合軍に向かって1万発の弾丸を撃ち続けた
ドイツ兵の視点からも映像を作っていたからです。
どんなに撃っても、どんなに殺しても
連合軍の兵隊が自分に向かってくる恐怖。
海岸が死体で埋め尽くされていくのに
それを踏み越えながら次々と連合軍が向かってくる。
彼は何百、何千という人間を撃ち殺しながら
ずっと父親と母親に、心の中で語りかけていました。
その姿は、自分の心が人間のままで居られるように
祈っていたようにも感じました。
Dデイでは1万2千人の連合軍兵士が死亡。
連合軍の空爆で2万人のフランス市民も死亡。


病院で救護活動していたフランス人の青年は、
連合軍が病院を空爆しないようにと
血に染まった大きなシーツを何枚も用意して、
病院の中庭に敷き、巨大な赤十字を作りました。
それは、ここだけは爆撃しないでというメッセージ。
赤十字は爆弾を装備した戦闘機にも見えて、
そのおかげで病院は空爆されずに済みました。
連合軍に爆撃されなかった建造物は、
教会と、この病院だけだったそうです。

フランス人のレジスタンス達は
ドイツ軍の刑務所に収容されていましたが、
Dデイが始まると牢屋から出されて、
ドイツ軍に銃殺されていきました。
レジスタンスのリーダーの、隣の牢屋には
とても若い同志が収容されていて、
若い同志にドイツ兵の拳銃が向けられた時、
「そいつの顔を見ろ。まだ子供だ。殺すな」と
隣の牢屋からリーダーが叫びました。
それを聞いたドイツ兵は、
その子だけは殺さずに去っていきます。

地獄のような世界に2つだけ存在した
心の繋がりを感じさせてくれるエピソード。
この2つも、憶えておこうと思います。
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by frat358 | 2009-08-12 17:27 | 戦争と人

ロミオとジュリエット

1993年、サラエボの危険地帯に
放置された2つの遺体がありました。
男と女の若い遺体で、腕を組んで死んでいました。


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セルビア人のボシュコと、ムスリム人のアドミラは
16歳の時、新年のパーティーで初めてキスをしました。
2人は互いに違う民族同士でしたが
その事に対する障害は、当時は大きくありませんでした。
しかしボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まると
互いが会うことすら困難になっていきます。

サラエボは包囲され、丘にはスナイパーが居て
市民の射殺を繰り返し、
誰かを殺すたびに兵士は賞金を貰っていました。
ボシュコの家族はサラエボを脱出しましたが、
ボシュコはアドミラの居るサラエボに残りました。
2人は命懸けで会い、互いを支え続けます。

1993年5月。
2人はサラエボを脱出する為に外へ出ました。
危険地帯に入った時、ブランコが撃たれます。
次にアドミラも撃たれて、2人は倒れました。
ボシュコは即死で、アドミラはしばらく生きていました。
アドミラはボシュコの遺体へ這っていき、
ボシュコを抱き寄せると動かなくなりました。

腕を組んで逝った2人は、そのまま放置されました。
遺体を収容しようとすれば、撃たれる為です。
1週間後、2人の遺体が特攻隊によって収容されたと
セルビア陣営が発表。葬儀が行なわれました。

セルビア軍は自分達の人道性をアピールする為に
この事件を政治的に利用しようと試みましたが、
アドミラの親は、それを拒否する為に
娘の葬儀に参加できませんでした。

「サラエボのロミオとジュリエット」と呼ばれた二人。
ロイター通信が世界中に伝え、二人の死を悼みました。
歴史を学ぶ時に、理由とか人物を知る機会が多いですけど
人間の数だけ、想いや選択もあるんじゃないかなと。
民族の違いを越えて愛する選択をした人間が居たことも
ユーゴの歴史を知る中で、憶えておきたいなと思います。
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by frat358 | 2008-03-15 18:22 | 戦争と人


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at 2017-08-14 11:07
夏だし怪談話を書く。
at 2017-08-13 17:45
最近の夜
at 2017-08-12 03:08