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スライディング・ヘディングシュート2


3000坪の冒険と、時々音楽すごく映画。たまにサッカー
by frat358
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天下一の貧乏くじ

天下一の貧乏くじ_c0027929_127411.jpg

結構前に草刈りも終わり、
ゴマの芽が成長するまで
1週間くらいヒマだった時期があり。
ドライブしたついでにゲームショップへ寄って
「信長の野望、革新」というのを買った。
好きな大名を操作して全国統一を目指すゲーム。
相良藩で日本を征服しようと思いまして。
・・・無理だな(笑)と思ってた矢先、
本能寺の変がイベントで発生した。

信長に、徳川家康の接待を頼まれた光秀は
日本中から選りすぐりの料理を用意して
完璧な接待を実現したかに見えた。
参加した武将達の誰の目から見ても、
素晴らしい接待だった。だが・・・
信長、何故かブチ切れる。

====================

「こらぁ光秀ー!!わしの今までの努力を
おみゃーは、ないがしろにするかー!!」

「日本中から様々なモノを集めました!
何が気に食わないのですか!」

「自分で考えろボケー!!」

「・・・(呆然とする光秀)」

「なに?秀吉が毛利との戦いで苦戦?
おい光秀、お前の領地は全て没収する」

「・・・は?!」

「秀吉の助けに向かって毛利を倒し、
毛利から領地を奪って自分のものにしろ」

「えええ!?そんな事したら私の部下が路頭に迷います!」

「うるせー!とっとと行ってこいやー!!」

======================

というような流れがあったと伝わる、
安土城での光秀と信長、最後のやり取り。
このあと、本能寺の変が起こります。
信長の判断は、この文章だけで察すると
ムチャクチャの極地。発狂してるとしか思えません;
何か理由があったと考えるのが一般的になる訳ですが、
主に2つの仮説があるようです。

仮説1 魚が腐っていた。

「大閣記」に書かれているそうです。
でも光秀は几帳面で、準備に抜かりのない人です。
腐った魚をオモテに出してしまったとは
とても考えにくい。信長にボコられたのが
5月15日だったと伝わるので、
湿気は多そうだけど急激に腐るとも思えない。
匂いのきつい、クサヤか何かを出しちゃった?
仮にそうでも信長がそういう魚が在る事を
知らないとは思えない。

仮説2 家康暗殺の命令を光秀が拒否した

ああ、これだな・・・って思ってしまった。
家康は三河国の殿様とはいえ、
今川義元が桶狭間で戦死し、
棚からボタ餅で独立する事ができた。
その後は武田信玄への防波堤として
三河国を任されてた面もあると思う。
武田との戦いで徳川軍が敗退すると、
信長は家康を散々、非難している。
その後、信玄は亡くなり武田も滅亡。
もう家康を大名として残しておく意味が
全くと言っていいほど無かった。
暗殺という「手段」にしても
信長は肯定派だったと思う。過去に信長は
仮病で寝込んで、見舞いに来た弟を刺し殺してるし
戦国一の暗殺王、松永久秀には甘かった。
信長と家康の関係は、実際には従属的で
同盟という対等の関係じゃなかったという説がある。
実際、信長は家康の長男に切腹を命じている。
対等の関係ならこんな事はしない。
家康は息子を斬って信長の命令に従った。
息子を殺せと命じても牙を見せないなら
更に因縁をつけて家康を殺そう。
そう思ってても不思議じゃない。
光秀って実際は、家康の暗殺準備を
任されていたのかもしれない。
しかし光秀が計画を拒否したと信長は気ずき、
皆が見てる前で大暴れした。私の想像ね;
もし信長が家康の命を狙っていたのだとすれば、
家康は気ずいてたと思います。
でも安土城に来いと命令されたら行くしかない。
なので行くけど事前に逃げ道を作っておいた~とかね。
(本能寺の変のあと、家康は
信長と敵対する伊賀忍者衆を
味方につけて、三河へ逃げ切っている)
このままだと自分が殺されるので、
暗殺を拒否してくれた光秀と結託した。
これが自分の中では一番ツジツマが合う。
家康は接待の後、堺へ見物に行けと
信長に命じられている。ここで再び
命を狙うつもりだったのかもしれない。
でも本能寺の変が起きる。
天下一の貧乏くじ_c0027929_1264135.jpg

光秀は義に厚い武将だったと伝わります。
ある日、光秀が自分を頼ってきた人物を家臣に加えると
その人物を信長が欲しがり、よこせと言ったのですが
私を頼ってきた人間を渡す事は出来ませんと言い、
信長が刀を抜こうとするほど脅迫しても
決して意見を変えなかったという逸話が残っています。

光秀は1万3000の兵隊を毛利が居る方向とは
全く逆の、本能寺へ進軍させました。
光秀の部下達は、きっとこれは信長の命令で
家康を討つのだろうと思いながら
進軍していたと覚書が残ってたり、
フロイスの日本史にも、そう書かれています。

本能寺の変のあと、用意周到な光秀は
様々な大名に書状を送って自分の味方になるように
頼んでいるのですが、拒否されてしまう。
信長の首も見つからない。家康は、その様子を
三河から観察していたのかもしれん。
殺されそうになった家康は、逆に信長を討って
秀吉との戦いにも勝利して長生きし、
遂には天下を取ってしまう。光秀は逆臣として
秀吉との戦いに敗れてしまう。

本能寺の変の1年前。
光秀は自ら記した「明智家法」に
信長のことを末尾に書いています。

石ころのような身分だった私を
信長様は引き立てて過分の御恩をくれた。
一族家臣は子孫に至るまで
信長様への御奉公を忘れてはならない。

本能寺の変の三ヶ月前には
茶会の時に宝を置く場所へ
信長自筆の書を掛けていたりします。
本能寺の変の直前まで、光秀は
信長を心から敬愛していたと思われます。
大きな理由が無ければ主君を討つという決断が
出来たとも思えない。そしてどんな仮説を用いても
貧乏くじを引いたように見えてしまう
光秀の人生。家康は勢力を増していく中で
光秀の家臣だった斉藤利三の娘を自身の孫の乳母に指名。
娘はその後、春日の局となって徳川幕府で権力を握った。
家康を祀る東照宮は、南光坊天海という人物が
周囲を「明智平」と名づけて取り仕切った。
まるで家康が光秀への恩を
返そうとしているかのようにも見える訳ですが、
その「恩」こそが本能寺の変なのかもしれない。
そう考えると複数の点が線になって結びつきますが、
私の勝手な想像です;
by frat358 | 2013-07-29 12:09 | イルマ侍
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