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スライディング・ヘディングシュート2


3000坪の冒険と、時々音楽すごく映画。たまにサッカー
by frat358
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2009年6月13日

三沢光晴、選手兼社長が永眠しました。
46歳。今日の朝、スポーツサイトを見たら
トップページに死亡と・・・書かれており。
病死や事故死などを想像しました。しかし実際にはリングで
試合中に亡くなったと書かれており。その瞬間、
頭は更に混乱しました。どんな事をされれば三沢光晴が
リングで死ぬのだと。これは全部、嘘の記事なんじゃないかと。

僕が三沢という選手を強く記憶するようになったのは・・
当時、二代目タイガーマスクだった彼が
試合中に自分からマスクを脱いで、
本名の三沢光晴になった時です。
この試合は自分もTVで見ていて、
強いインパクトがありました。
その頃、所属していた全日本プロレスは
エースレスラーの大量離脱などもあって、
看板選手の人材に乏しい状況になっていました。
三沢光晴は、この日を境にしてトップを目指し、
全日本プロレスを盛り上げようと戦い始めました。

その頃から、全日本プロレスでは
激しい長時間の試合が多くなっていった気がします。
20分、30分は当たり前。1つの試合が
1本の映画のようにドラマチックになっていき、
危険な技も、どんどん増えていきました。
それらを可能にしたのは全日本プロレスが生んだ
優秀な、素晴らしいレスラー達の技術です。
世界には色んなプロレスがありますが、
僕は、当時の社長だった馬場さんが生み出した
「王道プロレス」と呼ばれたものこそ、
世界最高の究極のプロレスだと思っています。

危険な技を、これでもかと受け止めるプロレス。
その中にはエースとなった三沢光晴も居ました。
腕で殴りつけるベイダーハンマー、
高角度で落とすバックドロップ、
受身が取りずらいエクスプロイダー、
場外でのジャーマン・スープレックス、
マットを剥がして床に叩きつけるパワーボム、
三沢光晴が常識離れの技を受ける姿を
何度も、何度も見てきました。
だから三沢光晴がバックドロップで死んだと聞いて、
信じられる訳なかったんです。

でも唯一、彼を死に至らしめる事が出来たのは
「蓄積」だったのかもしれません。
2009年6月13日の三沢光晴は、
動きに精彩が無かったそうです。
何度も頭を振り、相手の蹴りを喰らうと
グッタリとダメージを受けていたと。
日本テレビでの放送終了などもありました。
心労もあった可能性はあります。
でも本当の真実が明らかになる事は
恐らくありません。現時点では死因不明。
脳、頚椎に損傷のダメージ無し。
今回の件に限った事かは分かりませんが、
医師が会社に死因を話す事は無いそうです。
家族には説明があったのかもしれません。


三沢さんが全日本プロレスを離れて
NOAHという団体を誕生させた時、
「頑張っている人が報われる団体にしたい」
と話していました。そんな三沢光晴に
全日本プロレス所属の、ほぼ全ての選手は
辞表を出して三沢光晴に付いていきました。

その後・・・ゼロワンという団体の試合で、
1試合だけ参戦した三沢選手が
相手選手と揉みくちゃになった事があります。
試合後に三沢が相手にやられてるのを見ると、
三沢の後輩であり、部下である選手達が
全員、物凄い早さでリングに上がってきて、
一瞬で相手選手を蹴散らしました。
その時、自分は生まれて初めて
人が付いてくる強さって格好いいなと思った。
自分だけの為に強さを磨くのも
それはそれで「道」だと思うのですが、
沢山の人の夢を背負って世の中と戦う人って
こんなに格好いいのかと。
それを教えてくれた人、というのが
自分にとっての三沢光晴です。
求心力があり、ライバル団体からも
尊敬、信頼されていました。
人が付いてくる強さを持っている人は
どんな世界でも、なかなか居ません。

10年後には、2009年6月13日は
日本のプロレスが死んだ日だと言われるかもしれません。
でもこういう・・・人が付いてくる強さを持っていた人は、
誰かが見ていて、誰かが受け継ぐものなのかもしれません。
三沢光晴は死んでも死なないと、信じてみたいです。



by frat358 | 2009-06-14 22:00 | プロレスラー列伝
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